前回のブログで少し触れた「飾磨」の地名についてもう少し書きたい。
今回は考察として。
と言うのも私としてはやはり書いた様に飾磨の地名の由来が納得いかない訳です 笑。(住んでいますので)
勿論、「ドキドキ播磨国風土記」が漫画過ぎて余計にイメージが狂う、と言うのもある。
「鹿鳴くかも」と、ここでは誰が何処でそう言ったのか、それが書かれていません。
そら、「おいおい」とツッコミたくなるのです。
ポップに書いて伝えやすく、と言うやり方も解るのは解る。
例えば
「おお、この地には鹿も鳴くことよ」
から始まり、それはまだ姫路平野が原野であったころ、狩りにやってきた大三間津彦命(ここでは書かれていないが他では「彦」を「日子」と呼ぶ記述もある)が屋形を造って住んでいると、ある日、鹿の声が聞こえたので、「おお、鹿も鳴くことよ」
感激して思わず声を発した。
そこで「鹿も」から「餝磨」の郡と呼ぶことになった。
その場所は風土記にいう牧野の里だから、いまの広峯山麓の平野あたりである。
そこに誕生した飾磨がそのまま郡の名前となって定着していく。
とある様に、「ドキドキ播磨風土記」の「鹿鳴くかも」とは全然違うのです。
で、大三間津彦命とは誰なのか?ここが問題と言えば問題なんやが、これの記述が無い。
何かしらの理由で文書が亡くなったのかは解らんが、「ヒコ」と言うので男性と言う事だけは解るが、私的にはそこはあまり意味無いんかなぁ、と 笑。
要は「餝磨」の名が大事なので。
そんな訳で昨日古本屋で、
こちらの「美しく読む播磨国風土記」を見つけて、購入したのです。
早速餝磨の郡についてが↓
餝磨と号けました所以は、大三間津日子命が、この処に屋形を造り、それから座はしていました時、大きな鹿が有り、そして、鳴いていました。
その時、王が勅して云せになりますに、「壮鹿 鳴くかな」と。故に、餝磨の郡と号けました。
とあるが、こちらの説明としては謎とされていて、「大きな鹿がいて、鳴きました」の場所はわかりません。
と書かれている。
それから、「餝磨の郡の初期には、どこかに「餝磨の里」があったと考えられます。
中略
~どの里が、かつての「餝磨の里」だったか、興味深いです。
と、やはり真相は書かれていないのです。
ただ、「播磨国風土記を歩く」曰く、「その場所は風土記にいう牧野の里だから、いまの広峯山麓の平野あたりである。」ともされていて、さらに困惑させてくれました。
それから「播磨広域連携協議会」と言うサイトがあって、
http://www.harima-united.jp/column/climate/contents000217.html
だいぶはしょりますが、
麻跡の里は、広畑区西蒲田・蒲田辺りを指すと考えられているようです。
「麻跡:まさき」に関しては、飾磨区山崎の「や・まさき」から当地を遺称地と考える説もあるようですが、広畑区西蒲田の城山神社の西から太子町原へ抜ける峠を地元では「まさき峠」と呼んでいました。現在は、所々すり減った石の階段らしきものが残っていて、けもの道のような細い道が続いていました。この峠に残された名こそ、風土記の名残と考えてよさそうな気がしました。
とあって、私的には1番それらしく思います。
何より私が以前から思っていたのが飾磨の「磨」、こちらは元々「麻」を表す字。
上の「麻跡」でも使われている様に。
そしてもう一字である飾磨の「飾」であり、「餝」、これは
ま、読んで字の如く。
と言う事はですよ、元々で言えば「餝麻」だったのでは?
つまるところ、麻の飾。
機織りとは渡来人である秦氏が持ち込んだと云う。
播磨国四之宮とされている「白国神社」の白国とは播磨国風土記で言う「新羅から来た人たちがこの村に宿った」とされていて、そんなところから「白国」と名付けられた。
また、生矢神社の由緒としては、
鎮座地は手柄山南麓の三和山である。もとは三輪明神で、神酒(みわ)は播磨国の大神である伊和大神の名に通ずる。播磨を征した伊和族がここへ進出して来た痕跡と思われる。
『播磨国風土記』には、「餝磨郡・伊和の里(しかま いわ)伊和部とよぶのは、積幡の郡の伊和君らの族人がやってきてここに住んだ。だから伊和部とよぶ。手苅丘とよぶわけは、近い国の神がここに来て、手で草を苅って食薦とした。だから手苅とよぶ。あるいは「韓人たちが始めて来たとき、鎌を使用することがわからず、素手で稲を刈ったからと言う。」と記されている。
昨日行った播磨国一ノ宮 伊和神社からの流れがある訳です。
とまぁこの様に、私的には「飾麻」と呼ぶのが本来の名前なんじゃないかな~と。
なんなら「播磨」とは「針間」とも書き、「針麻」でも何の違和感もありません。
「壮鹿 鳴くかな」それならその通り「鹿鳴」(シカナ)でもええんやから 笑。
「鹿も」から「餝磨」の郡と呼ぶことになった、では苦しいとしか言えん。
なんぜわざわざ「飾磨」に変換するのか。
いや、変換したのか?笑。
或いは「麻」では都合が悪く、書き換えられた、書かされたのか。
播磨広域連携協議会の言う、
「「麻跡:まさき」に関しては、飾磨区山崎の「や・まさき」から当地を遺称地と考える説もあるようです」
これで言うと、近所には八幡地区があり、山崎は「八麻跡」でもおかしくはない。
(秦氏の末裔、関係者が住んでいたとかで)
ちなみに麻の旧字体↓
(3歩で忘れる自信がある)
「ひょうごの地名再考」では飾磨について書かれていないが、面白いのが、宍粟の「五十派」について書かれていて、私も昨日そこを通った時に「ごっつい名前やな」と思ったものです。
五十派=宍粟郡山崎町
「播磨国風土記」宍粟郡石作里の項に、「伊和麻川。伊和大神が国を占めたとき、烏賊が川にいた。だから烏賊間川という」とある。が、川に烏賊がいるわけがないから、風土記の例のでたらめな地名語源説ということになる。
と書かれていて、「ほんまその通り」となった次第。
そりゃね、元々そこは海やったとするならば、イカがいてもおかしくはないし、伊和神社の鳥居が
控柱を立てた両部鳥居ってのも納得出来ます。
神話の世界では海やった、と言うのであれば。
まぁでもこの鳥居はそんな前からある訳では無いのでね 笑。
そんな訳で「烏賊」の件もやっぱし「いやいや、おかしいやろ」とツッコまざるおえません。
ちなみにこの著書ではアイヌが語源じゃないか?と言う見解を度々に繰り広げていて、私的にもそれは各地にありそうやな~と。
何故なら大和政権や渡来人に北へ北へと追いやられたのが先住民であるアイヌ民族。
そりゃ名残りは各地で間違いなくあるやろう、と。
それを国を奪ったものたちが名前を変えていったんじゃないか?とも。
山の名前がいい例で、1座でもどんだけ名前あんねんってな程にはあるし、城の名前もまた然り。
制覇したと言う欲がそうさせるんやろう。
やっぱし何事もそうやと思うが、違和感がある事、おかしい事には「おかしいやろ」とツッコむのが真を深めると思うのです。
世の中の闇は暴かないと 笑。
「陰謀」とはこう言うところから始まるんやろうな、と。
やからこそ「陰謀」と「陰謀論」は別なんです。
何せ「陰謀」とは「実行」なんやから 笑。
論とはあげつらう事なので全く意味合いが違う。
残念ながら播磨国風土記も日本書紀や古事記の様に情報操作が時の権力者により少なからず行われとんやろうな、と思わざるおえません。
(もしくはマジでTHEテキトーなのか)
その為通説だけではなく、俗説も知る事が大事で、それらをまとめて改めて考える事もまた大事、と私なんかは思う訳です。
「なんでもかんでも「陰謀論」とシャットアウトすればそこで試合終了ですよ」と安西先生も言ってたな。
ま、怖いのはメディアだけを信じたり、政府だけを信じたり、自民党だけ、公明党だけを信じる、そう言うのがやはり危険。
昨日も書いたが、かつての国家神道についてもそう言う事です。
そして古神道はまた別、とも書き残しておきたい。
(いやしかし私が何故「播磨國五之宮巡り」を行ったのか、の内容でもあった 笑)