今日は久しぶりに、
男山に。
チャリンコで片道6Km、程よいです。
男山麓の、
水尾神社。
こちらの祭神は、
オオナムチとなっています。
御利益等はどうでもよく()、設定がやはり肝。(あ、御利益も設定か 笑)
元々は伊和大神を祀っていた、とある。
現在の総社ともあるのでまぁ度々に本等で見掛けるものです。
伊和と三輪は何かしら関係があるんじゃないか?とここでも書いたが、面白いのが1つあって、手柄山南にある生矢神社。
こちらは伊和族と関係があり、そこやったか、その西隣やったか、はたまたその辺りかの山は三和山と言い、
寺もあって、名前は「三和寺」と言う。
何かしらで絡んでくるんよね 笑。
どう考えても関係あるやろ、としか思えんのよなぁ。
伊和神社の祭神もオオナムチです。
あくまでも私の中では神社が出来てからの信仰よりもその前、今で言ういわゆる古神道の方を重視していますので、それはやはり磐座。
それなもんで「イワ」「山」「水」(水源)こそが生活にめちゃくちゃ大事な自然(資源)やろうから、どうしても気になる。
ところでこのブログをやりだしてからは男山には行ってなかったか、ただアップしてないのかは解らんが男山山頂部には
このような標石があります。
標石南面には「三角」と見えるが等級の刻印は無い。
勿論、
三角点Viewerと言うか地形図にも記号はありません。
何かしらの測量をやっての標石なんやろうけども、標石西面には
「姫路」の刻印があって、これが私的にはレアなんよね 笑。
ちなみに男山と姫路城の間に流れる川は船場川で、これを南に下れば上で書いた生矢神社もある。
地形図を見るにこの船場川が如何に地元民が大事にしてきたかも解るが、その反面災害もあったのが船場川。
そしてこの船場川はあくまでも市川が本流であり、そこから無理矢理かどうかは解らんが引っ張ってきた訳です。
そら災害があれば街は水浸しにもなる。
何故なら自然に逆らう事をするから。
そこへ昔の人は沈める為に祭祀場を設けだしたのではないか?と言うのが私の考えるところです。
船場川の氾濫。
尤も、
市川も相当なものですが。
(これを見れば「蛤山」の由来も頷けるのではないでしょうか?)
水尾神社と言う名前も面白いのがこの船場川の西隣の川の名前が「水尾川」と言うんやから、「ど、どう言う事?」が駆け巡ります 笑。
ちなみに船場川を生矢神社よりもっと南に下ると、
陰陽師安倍晴明の宿敵であった芦屋道満の薬塚があったりで、船場川にはこの街の歴史を垣間見れるのです。
この薬塚と播磨国風土記が出来た年代とは数百年もの時がある為全く関係ないが、私的には播磨国風土記に出てくる「十四の丘」これ、実際は「十四の塚」やったらオモロいよなぁ、と 笑。
何せ謎が多過ぎるんよね。
これはガチなんか?ボケてんのか?的な事がほんまに多い訳です 笑。
ま、やからこそ播磨国風土記には親しみが沸いて、もっと知りたい欲に駆られるのですが。
そんで今日のジム、
この向こう側をもっと整理して、シュっとしたいなぁ、と。
この足場棚を無くして、
ビス棚をそっちにやれば相当な広さが確保出来る。
ただ、ほんまに面倒くさいのです 笑。
まだこの感じ。
いやぁ、なんやろ。
この倉庫ジムをやろうとした、
2020年4月を思い出すなぁ 笑。
ここから、
これで 笑、
タイヤ吊って、
毛布巻いたり。
こうして出来てきたのです。
今は、
建設現場で使われる防炎シートを敷いてます 笑。
船場川には遠く及びませんが、ま、何事も歴史ありです。
面倒くさい事、やっかなぁ 笑。